父や姉は、それにまったく気付いていないのか、それとも関心がないのか分からない。
あやめには、父と母は冷えきった関係にしか見えなかった。
家事に追われ、女性ではなく母親になった母と、仕事人間で家族に無関心に見える父。
あやめは二人をそんな風に見ていた。
一方、姉の椿もまた、家族の中にあって、一人奔放に遊びまわる人だった。
長女の自覚もなく、両親と同居している気楽さと、仕事に対しても腰掛程度にしか思っていないため、結婚も考えず自由に恋愛を楽しんでいた。
あやめは母と姉は全く対照的な女性としての人生を歩んでいると思っていた。
しかしあやめは、そのどちらも自分の望むところではないとも思っていた。
彼女は、恋愛に対しても、家庭に対しても、自分の人生を注ぎ込むだけの魅力を感じられないでいた。
どちらかというと、父のように仕事に徹する方が自分には向いていると考えている。
実際に仕事は楽しかったし、結果もついてきたために、やりがいも感じていた。
両親はそんな姉妹を見て、姉の方はいずれ結婚すれば落ち着くと見ているらしく、むしろ仕事に没している妹の方を心配しているようだった。
実際、姉の椿にとやかく言うことはあまり無く、あやめに対してしきりに恋人の有無を確かめたり、見合いを勧めたりしてきた。
しかし、あやめはそれらをことごとく撥ね返してきた。
そんな中、母の浮気疑惑が上がってきた。
(といっても、あやめが一人でそう思っていただけだが)
父や姉には相談できないと見るあやめ。
しかし内輪の話、しかも母が不倫しているかもしれないなどという話を、友達に話せるわけもない。
あやめは仕方なく、母の姉である伯母の冬美に相談することにした。
冬美は女性経営者として成功しており、あやめの目標とする女性だった。
度々、仕事に関することや家族についての相談に乗ってもらっていた。
「咲はね、浮気なんか出来る性格じゃないわよ」
冬美は自分の妹についてそう語った。
「それに、あんたはどう思っているか知らないけど、あの夫婦は結構あれでうまくいってるのよ」
とあやめを諭すように言う。
しかしなおも納得いかない様子のあやめに、
「とにかく、そんなに疑うのだったら、咲ちゃん本人に聞いてごらんなさいよ」
それでもあやめは、もし母に嘘をつかれても見抜けないし、冬美も一緒に見て欲しいと頼む。
が、
「わたしはそんなに暇そうにみえるわけ?」
と一蹴されてしまう。
その後も一人で思い悩むあやめ。
仕事も手につかないようになってくる。
さすがにこれでは精神衛生上よくないと考えたあやめは、思い切って母に直接問いただそうと決心する。
そんなある日に、またしても母が出かける用意を始める。
あやめは母の後を尾行することにした。
後をつけていくと、果たして母は男性と待ち合わせをしていた。
その男性は父とはまったくタイプの違う人で、年齢はおそらく母や父よりずいぶん上に見えるが、洒落たスーツをさりげなく着こなし、年寄りくささを感じさせない。
不倫をするようには見えない、誠実そうな印象を与える人だった。
(母もなかなか見る目があるわね)
などと変に感心するあやめ。
そんな彼と話をする母の顔は、今まで家庭では見せたことのないような笑顔だった。
またしてもあやめは、そこに母の女の部分を感じていた。
二人は喫茶店に入り、話込みだした。
あやめは向いの喫茶店に入り、二人を見ているが、もちろん何を話しているのかは分からない。
なにやら色々テーブルの上に物を広げてやり取りしている。
あやめは、もしかしたら悪徳なセールスか宗教の類に母は引っ掛かっているのかと疑う。
しかし、お金をやり取りしている様子はない。
しばらくそんなやり取りをした後、二人は店を出る。
あやめも慌てて向いの店から出る。
二人はその後、連れ立ってしばらく歩いたので、これからまた何処かに向かうのかと思われたが、その場で別れた。
最悪の現場は見ずに済んだとほっとするあやめ。
しかしその反面、浮気の証拠を押さえられなかった悔しさも感じ、複雑な思いのするあやめだった。
母が家に帰るのを見届け、遅れてあやめも家に入る。
母の顔を見るが、やはり聞き出すことは出来なかった。
あやめはまたも冬美に相談しに行き、母が男と会っていたことを話した。
それでも冬美は、
「別に喫茶店で会ってただけでしょ?なにがあったわけでもないでしょうが」
とまったく心配していない。
「前も言ったけど、あの夫婦は見た目より仲がいいから大丈夫だって」
とあやめを諭してくる。
あやめには、その仲がいいという点だけはどうしても納得がいかなかった。
あやめは父母二人の関係をそんな風には見ていなかったので、二人の夫婦仲を根拠に説得されても、説き伏せられることはなかった。
「だから、そこまで疑うんだったら、やっぱり直接咲ちゃんに聞いてみなよ」
と、やはり前回と同じアドバイスを残して、冬美は帰っていった。
しかしあやめは、それでもその後も母に聞き出すことが出来ないまま時が過ぎた。
そしてまたある日、母は出かける仕度を始める。
あやめは思い切って、ついに何処に行くのか母に問いただすことが出来た。
すると意外にも母は、悪びれる風もなく、
「あなたも暇なら一緒に行く?」
と言ってきた。
ポカンとするあやめを尻目に、
「そうしよう」
と勝手に決め、
「さあ、仕度をしなさい」
とあやめを急かす。
あやめはあまりに意外な母の反応に、どうも頭がうまく回らず、言われるままに出掛ける仕度をする。
母があらかじめ呼んでおいたタクシーに、家の前から乗り込み、親子は出発した。
タクシーの中で、あやめは母に行く先を尋ねる。
母は、
「内緒」
といたずらっぽく笑うだけで教えてくれない。
母にこんな無邪気な一面があったのか、とあやめは思う。
しかし、そう思いつつすぐにあやめは、母がそうであったことを思い出す。
(母はもともとこういう人だった)
あやめや姉の椿の誕生日や、何かの祝い事があると、プレゼントを最後まで隠して、姉妹をやきもきさせて喜ぶような人だった。
いつからか大人の女性を自負した姉妹たちは、そんな母からのプレゼントを喜ばなくなった。
何となく気恥ずかしくなって、母も次第に、ちょっと豪華な料理を作るぐらいになっていった。
何か楽しみを奪われたような表情を、母はしていたのではなかったか。
(母から無邪気さを奪ったのは自分たち姉妹、とりわけ自分かもしれない)
そんなことをあやめが考えていると、タクシーは中学校の前に着いた。
学校の中に入ると、先日の男性を含めて、中年の男女が30人ぐらい集まって歓談している。
母はあやめをみんなの前に連れて行き、
「私の娘よ」
と紹介する。
そこは、あやめの母が卒業した中学校で、集まっているのは卒業時の同級生等だった。
そして、問題の男性を、
「担任の先生」
とあやめに説明する母。
「今日はね、卒業する時にみんなで埋めたタイムカプセルを30年振りに掘り出すの」
母は当時、級長をしていて、担任だった江川先生と今日の行事の打ち合わせを重ねていたのだという。
母の話を聞きながら、あやめは母が意外に行動的なこともまた思い出していた。
やがて、あやめの母の先導のもと、一同はタイムカプセルを埋めた目印のある桜の木の下に移動する。
ぞろぞろと連なる母の同級生の一団に、あやめもついていく。
木に集まった同級生たち。
男性が中心になって、みんなでスコップを持ち、一掻きづつ掘り起こしていく。
一回りした後は、男性数人がどんどん土を掘っていく。
やがて、硬い音がして、土の中からアタッシュケースを一回り小さくしたような、いわゆるブリーフケースが現れた。
「わあっ!」
とみんなの歓声があがる。
あやめは母に、中身は何なのか尋ねる。
「みんながそれぞれ、30年後の自分に宛てて書いた手紙よ」
母はそっけなく答える。
そんな態度が気になったあやめは、母がなんて書いたのかを尋ねる。
「忘れちゃった」
と答える母の横顔は、頬を赤く染めて、まるで中学生の少女のようだった。
担任の江川先生が、ケースからビニールにくるまれた封書の束を取り出し、五十音順に次々と名前を読み上げながら手紙を配っていく。
配られた人たちは、早速封を開けて自分への手紙を読む。
読み終わった者は他の者の手紙を覗き見たり、交換しあったりしている。
自分の手紙を見るときは恥ずかしそうに、他の手紙を見るときは笑いながら、騒々しい時間が過ぎる。
「今日来ていない人は後で郵送するからね」
あやめの母がみんなに向かって言った。
母の名が呼ばれ、彼女は手紙を受け取りに先生の下へ行った。
あやめが覗き込もうとするのを何とか防ぎながら、母は自分の手紙を読む。
あやめが早く読ませてとせっつく。
読み終えた母は渡すか渡すまいか迷っていたが、思い切った表情であやめに手紙を渡す。
それでもその場にいるのが恥ずかしいのか、旧友達の方へ行ってしまった。
あやめが手紙を読むと、そこには将来の夢と題された手紙が書かれていた。
「30年後の私へ
こんにちは、咲ちゃん。
元気ですか?
今頃は、江川先生と結婚して、幸せな家庭を築いていますか?
もしそうなっていたら、嬉しいです。
そうなれるように、今の私も頑張ります。
じゃあ、またね。
咲より」
やっぱりとあやめは思いながら、母を探そうとすると、江川先生が話しかけてきた。
「やっぱり宮田君は来なかったのだね」
という。
あやめは不思議そうな顔をする。
「母は来てるじゃないですか」
といいかけて、思い直す。
(そっか、お母さんの苗字は中学の頃は宮田じゃないや。ってことは……)
考えながらあやめは、ハッと思い出す。
そう言えば昔、父と母は同級生だったと聞いたような記憶がある。
しかし、現在のあまりにも冷めたように見える父母を見ていると、幼なじみというロマンチックな関係から縁遠く思えて、すっかり忘れていた。
「これ、お父さんに渡してあげてください」
あやめは父の手紙を江川先生から受け取った。
「すいません。あの人ほんとに頑固なの。それに今だに先生のことライバル視してるんだから」
いつのまにか後ろにいた母が、そう江川先生に詫びた。
「お父さんの手紙、読んでもいいかな?」
あやめは母に尋ねる。
「いいわよ」
自分の時とはうって変わって、あっさり母は手紙を読むことを許した。
父の手紙には、
「30年後の僕へ
お元気ですか。
今頃は咲ちゃんと結婚して、幸せな家庭を築いていますよね?
江川先生はいい先生だけど、今の僕の咲ちゃんを好きな気持ちは誰にも負けていないです。
30年後の僕も、そうですよね?
そう信じています。
じゃあ、お幸せに。
忠一より」
母はやはりいつのまにか離れていた。
(私が見ていないだけだった。ずっと、この頃から父と母は今でも変わらず夫婦でいたんだな)
とあやめは思った。
30年前の恋のライバルに、未だにやきもちを焼き続ける父。
そのやきもちに、まんざらでもなさそうな母。
会は場所を近くの居酒屋に移して、本格的な同窓会になるらしい。
移動していく皆を見送り、あやめは帰ることにした。
帰り際に母に、どうして今日自分を連れてきたのか尋ねてみた。
「何かあんたが誤解してるんじゃないかと思ってね。後とかつけてたでしょ」
母は全てお見通しだった。
「それにさ、私が幸せ者だってことを、手紙の願いがちゃんと叶ったってことを、みんなにもあなたにも自慢したかったから」
そう言った母の顔は、やはり母親の顔に戻っていた。
しかしあやめはその顔を、もう少しも嫌だとは思わなくなっていた。
家に戻ると、姉の椿だけしかいなかった。
しかも姉は、何やらそわそわしている。
あやめの顔を見るなり、
「どうしよう」
と不安げな声を出す。
どうしたとあやめが聞くと、
「なんか、お父さんがすごくおめかしして出掛けてったの。もしかしたら浮気じゃないかしら?」
あやめは笑って今日のことを姉に説明してあげた。
「あのね、お姉ちゃん……」
END
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