フミさんは、しばらく安倍氏の言っている意味が解らず、呆けていた。
しかし、やっと頭が働いて、もう一回安倍氏に聞いてみる。
「はあ、遣隋使ですか。それって何です?」
「お前は、ほんまに物を知らんのう。それでも役人の細君か。あのな、遣隋使と言うたら朝廷を代表して、隋の国に渡って、向こうさんの文化を学んでくる、ありがたい、大事な役目なんや」
「それやったら栄転とちゃいますの?」
「栄転ていうなやお前、ずっと向こうに居るのとちゃうんやから」
「どれくらい、いきはるの?」
「せやなー、まあ数ヶ月、へたすると、一年以上になるかなあ。大体、行って帰るだけでも一ヶ月以上かかるやろ」
「どないして行きますの?」
「どないしてって、船で行くに決まっとるやないか」
「危ない事ないの?」
「それやがな。なんぼ最近になって、船の技術が上がったゆうてもそれ、海の上をゆく訳やから自然が相手や。絶対安全なんて事はありえへん。ワシはそれが心配なんや。そら、うまいこと帰って来れたら、おそらくえらい出世できるで。せやけど、帰って来れるかどうかが、まず心配やからな。それに向こうさんでも、そら偉いさんは歓迎してくれるかもしらんけど、一般市民なんかはどうか解らんで。何やヨソ者がきよった、偉そうにしとるで、気にいらんゆうて、ブスッと刺されてみい。何しに行ったかわからんで。大体あの小野はんも……」
「あなた、また話は食事の時にゆっくり聞きますから。先にお風呂入っちゃって下さい」
安倍氏のとめどない話を、いつもの様に打ち切って、フミさんは台所に食事の用意をさせに行った。
「ただいまー!」
力のいつも以上に高いテンションでの帰宅に、ユメさんは、戸惑いながらも出迎える。
力はユメさんを見るなり、抱きついて言った。
「やったよユメちゃん。俺、隋に行けるんだ」
「ちょ、ちょっとどういうこと?隋ってなあに?ちゃんと説明してよ」
一人で興奮しながらしがみつく力を引き離しながら、ユメさんは言った。
「隋っていうのは、西の方にあるでっかい国の事だよ」
「そこに何で力君が行く事になったの?」
「何でって、俺が船乗りだからに決まってるじゃないか。俺が、遣隋使御一行様の乗る船の船頭に、選ばれたんだよ」
「船ですって?隋って海の向こうにあるの?」
「だからさっき西の方って言っただろ。海の向こうじゃなきゃ、船乗りの出番なんて無いじゃないか」
「そうだけど。でも、何で力君が?」
「あのねユメちゃん、ちよっと俺のこと見くびり過ぎてない?俺ってこう見えて優秀な船乗りなのよ。小野様自ら船員の作業場までお越しになって、仕事振りを見て選らんでくれたんだよ」
「小野様って?」
「小野妹子様に決まってるじゃないか」
「へえ」
ユメさんには、誰の事かよくわからなかったが、力の興奮からして、よっぽどの大人物なのだろう。
「とにかく、これは凄く名誉な事なんだよ。報酬だってたっぷり貰えるし。ほら、ユメちゃん前から欲しがってた髪飾りがあっただろ。あれだって買ってあげれるよ」
「本当に?でも危険じゃないの?」
「そりゃ海を渡るんだから、絶対安全って事はないよ。でもそんな事、海の男だったら当然だろ。ユメちゃんだって、海の男の奥さんなんだから、それぐらい承知の上だろ」
「そりゃそうだけど。でも心配だわ」
「大丈夫だって、俺の腕を信じろよ。それにさ、向こうに行ったら、隋の国の珍しい物を一杯お土産に持って帰ってあげれるし。それに帰って来たら、もしかして海軍の船長になれるかも。そしたら大出世だよ」
力は急に真顔になり、じっとユメさんの顔を見つめた。
「今までユメちゃんには苦労をかけたけど、これからは楽させてあげられるよ」
「私、今までも、苦しいなんて思った事ないよ。それより、力君の身が心配。それにいつまで向こうにいるの?いつ帰ってこれるの?」
「そうだなあ、数ヶ月、いや場合によっちゃ一年以上になるかも」
「そんな、一年以上もなんて。私、その間一人で待ってるのよ、寂しい
わ。力君は寂しくないの?」
「そりゃ寂しいさ。でもユメちゃん、分かってくれよ。今回の事は、本当に大きな機会なんだよ。俺の夢が叶うんだ。わかってくれるよね」
子供の様に目を輝かせる力に、何も言えないユメさんだった。
「そらワシかてな、今回の事はええ機会やと思うで。うだつの上がらへんかった、ワシやったけどな。今回のおつとめを、無事終えて帰ってきてみい、その後は出世街道まっしぐらや。下手すると官位まで頂けるかもしれへん」
食事を終え、一杯やりつつ、安倍氏は妻のフミさんに、話を続けていた。
「そうなったらやで、今までお前には苦労をかけてきたけども、やっと楽させてあげれると思うんや」
珍しく殊勝なことを言う安倍氏に、フミさんも悪い気はしない。
「そんな、今までも私、苦しいなんて思ったことありません。でも、そない思うんやったら、ええ事やないの」
「そやかてお前、下手したら一年以上やで。一年以上もお前の顔を見られへんと思うと…お前は平気なんか?」
「そら私かて平気なことあらしません。それでも、愛する亭主の出世を、妻が寂しいからといって止めるわけにはいきまへん」
「お前……」
安倍氏は、フミさんの思いに、ぐっと言葉につまり、涙がにじむのである。
「でもな、一つだけ不思議なんが、何でワシ何かが選ばれたんかゆうことやねん。他にも優秀な人は何ぼでもおるし。行きたいって前から願いを出してはった人も、ようけおったんやで。そやのに何で。ワシなんか、特に仕事が出来るわけでもなし、隋の言葉も話されへん。他に選ばれた人も、何やワシが言うのもなんやけど、ぱっとせんような人ばっかりのような気がするし。どうゆうことなんやろ」
しきりに安倍氏は首をかしげる。
「あなた。そうは言っても遣隋使なんて初めての事やろ。それやったら、どんな人が適任かなんてわからしません。もしかしたら、国内ではぱっとせんような人でも、あちらに行くとうまく活躍出来るかもしれません。私から見ても、あなたは人見知りしないし、人当たりもいい人です。何ぼ仕事が出来る人よりか、そういう社交的な人が、選ばれるんと違いますか」
「そやな。お前の言う事には、確かに一理あるわ。それに、あの小野はんが選びはった事やから、間違いがあるはずも無いわな」
「あなたは、なんやかんや言うても、小野はんの事を信頼してはるんやねえ」
「当たり前やがな。そら時には意見が対立して、ぶつかり合うこともあるけどもや。ワシはほんまに、あの人のことを尊敬してるんや。あの人について行ったら間違いないと思てる。今回もワシの事を選らんでくれはった小野はんのために、懸命にお勤めしてくるわ」
「あなた……」
一皮剥けた様な、安倍氏の態度に、フミさんも惚れ直す気持ちだった。
「ねえねえ、小野様ってどんな人だった?」
食事中にユメさんは、力に気になっていた事を聞いた。
夫の出世が決まった日だったので、少し奮発して、いつもより豪華な夕げだった。
「そうだなあ。作業場を視察に来られた時は、遠目だったからよく見えなかったけど、思ったより若々しい感じだったよ」
「そう。でもそれじゃあ、小野様の方からもよく見えなかったんじゃないの?」
「いや、向こうは船の動かし方を見てるから、人の顔なんか解んなくたって大丈夫だよ」
「じゃあ、どうやって力君の事が凄いってわかったのかしら?だいたいなんで力君が船頭なの?永造さんや風太さんはどうしたの?」
「それがさ。永造さんや風太さんは、前々から遣隋使の話を聞いて、ぜひやりたいって、役人にも言ってたんだ。それで、視察の日なんかもえらい張り切ってたさ」
「それがどうして?永造さんや風太さんの方が、力君よりずっと先輩だし、腕もいいわ」
「うん。だけど今回は、二人とも行かない」
「え?行かないの?船頭にならなかっただけじゃないの?」
意外な言葉に、ユメさんは、慌てて聞き返す。
「うん、行かない」
「何で?ああもしかして、力君みたいな若僧が船頭になったから、やってられっかって、断っちゃったとか?」
ユメさんは、かわいい顔でずばずば言う。
「酷いこと言うなあ。そうじゃないよ。選ばれなかったんだ」
「選ばれなかった?」
ユメさんは、益々不審な顔になる。
「うん。確かに俺も、それは不思議だったんだ。船頭はともかく、船員にも選ばれないなんて。それに、選ばれた船員ってのがほら、あのごん太とか俵助とか。あの連中なんだよ。あんまりいい評判は聞かない奴らさ。腕はいいのかもしれないけどね」
力も言いながら、顔をしかめた。
「それって何だか、おかしいわ。だって大事なお役目なんでしょ?何で永造さん達を外して、そんな人達を選ぶわけ?」
ユメさんは、なかば怒り気味に言う。
「まあ、上の役人の考える事は、よくわからないけどさ。俺は小野様を信じてるよ。俺がさ、そういう厄介な連中を、まとめる腕を持っているって、見抜いてくれたんだよ。だから俺は、精一杯頑張るよ。だってこんな名誉な事はないだろ」
遠い目でそう語る力に、ユメさんはまたも、何も言えなくなるのだった。
「名誉ねえ……」
「ねえ、妹子さま。本当に隋の鏡を買ってくれるの?」
しとねの中で、女は甘えた声を出す。
「大丈夫やって。ちゃんと買うたげるって、前からゆうてるやろ」
女の髪を撫でながら、小野氏は言った。
「だけど寂しいわ。一年以上も会えないなんて」
うつ伏せに体の向きを変え、女は上目使いに、小野氏の顔を覗きこむ。
「何ゆうてんの。一年以上も会わんかったら、ワシ寂しゅうて死んでしまうがな」
小野氏は大袈裟に、自分の首を絞める振りをした。
「でも、向こうに行ったら、それくらいかかるでしょ」
女は小野氏のふざけた態度に、少し腹を立てながら言った。
「ああ、行かへん、行かへん」
「え?どういうこと?」
女は大きな目を、なおも見開いて聞く。
「隋なんて行くわけあらへんがな。あんな危ないとこ」
「行かないの?どうして?」
「何が悲しゅうて、危ない目までして、あんなとこまで行かなあかんねん。あんな所は、下っ端の、何の役にも立たん連中に行かせといたらええねん。ワシら権力もあって、ええ生活しとるもんが、わざわざ死ぬ思いして、いや下手したら、ほんまに死ぬんやで。そんなこと出来るかい。もったいない」
「でも、小野様が行かないと、まずいんじゃないの?」
女は顔をしかめて言った。
「そら立場上というか、表では行くことになってるで。せやけど、ある程度権力持ってる人間は、自分も選ばれたないから、みんな口裏合わせて、行ったことにしてくれよる。実際に行くのは下っ端ばっかりや。そんな者になんぼ騒がれたかて、痛いことあるかい」
女は小野氏の言葉に疑問を感じて聞いてみる。
「じゃあ何で、遣隋使なんて考え出したの?」
小野氏は女の顔を、じっと見つめながら言う。
「そら、お前が、隋の鏡が欲しいなんて言うからやないか」
女はまたも目を見開いた。
「じゃあ、みんな私の為に行ってくれるんだ。何かかわいそう」
「まあな。せやけどな、あいつらはそれを名誉なことやと喜んでるわ」
小野氏は、真顔になって溜め息をつく。
「いつの世の中にもな、ああいう自分の持ってる能力以上のことを何で
も有難がってやりよる奴はおるもんや」
小野氏は、視線を女からそらした。
「それが上の者に、上手いこと使われてるとも知らんとな……」
高台に建つ屋敷の外は、すっかり暗くなっていた。
小野氏は、女の髪を撫でながら、窓の外を、物憂げに眺める。
遠くに見える、港のあかり。
浮かぶ船の上で、せせこましく働く、人達の影が見えた。
END
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