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Twitterから偶々出会った2chスレッドのまとめ記事。
そのドキュメント風な独白文が面白いと話題になっている。 僕も昨日の夜中に読み始めて、長編なのでさすがに全部は読みきれなかったが、仕事の休憩の合間に少しずつ読んで、ようやく今日の夕方に読み終わった。 まずはそのスレッドまとめを読んでいただきたい。 長いので時間はかかるが、すらすら読めて苦痛は感じない。 2ch独特の書き方をしていたり、筆者の表現力や文章力の無さによって多少読みづらい点もあるが、それを補って余りある内容なので、途中から気にならなくなる。 2ch等の様式に慣れている方ならすんなり読めるだろう。 僕もそういったものをあまり読んだことが無かったが、読んでる途中で慣れてきた。 風俗行ったら人生変わった 内容についての真偽や、構成力などについて論じるつもりは無い。 ここでは本文よりもそこに寄せられたコメントから、僕が気付かされた二つの才能について言及したいと思う。 まず一つ目の才能とは「人と出会う才能」である。 このスレッドまとめに対するコメントのほとんどが筆者や登場人物に対する賞賛の声であるが、中には彼らを批判するものもある。 その中で目立ったのが「結局主人公自身は何もしていない。友人が凄かっただけの話」という批判である。 僕が実際に読んだ感想としては主人公自身もそれなりに頑張って行動を起こしていたと思うのだが、確かに彼の友人がいなければトラブルは解決しなかったであろうし、批判する人達がそういった考えを持つのも分からないでもない。 ただ、例え主人公が本当に何もせず、ただ友人が解決したのだとしても、それはその主人公がその友人と友達であったがために彼は行動を起こしてくれたのだ。 つまり、主人公はその友人を友達に出来た時点で素晴らしい才能を発揮出来ていたのだ。 それは彼にしか成し得なかったことなのだ。 因みにこの友人というのはルックスも性格も抜群でおまけにお金もある。 自信に満ち溢れていて、正義感もあり行動力もある。 あなたは実際にそんな人物に出会ったことがあるだろうか? 僕は無い。 まして友人になったことなど無いし、もしそんな人に出会えたとして自分と友達になってくれるか自信はない。 さらに自分の窮地に無償で助けてくれるほど、そんなスーパーマンみたいな人に慕われる自信などあろうはずもない。 しかし、この主人公はこのスーパーマンと友人になっただけでなく彼自身が逆に尊敬すらされているのだ。 だからこそこのスーパーマンは主人公を救ったのだ。 こんな人物と出会い、またその出会ったチャンスを逃さずに(本人に自覚は無いのだが)友人になりえた主人公の才能と言わずに何と言うのだろう。 先に書いたように「ただ友人に助けられただけ」と言う人には、恐らくそういった友人はいないのだろう。 少なくとも助けられた覚えは無いのだろう。
人間が自分一人の力で出来ることは、どんなスーパーマンでもたかが知れている。
しかし、他の人と協力すれば出来ることはどんどん膨らんでいく。 今回の話で主人公達が解決した問題は恐らく大した事ではないのかもしれない。 人によっては(主人公の友人のように)一人で解決できるような出来事なのかもしれない。 しかし、この主人公にとっては明らかに一人では解決できない問題であったはずだ。 それが解決出来たこと自体が彼の能力を遥かに超えた奇跡なのである。 僕達が自分の力だけで解決出来る事がどれだけあるというのか? そして自分の力でだけで解決出来ない事に遭遇し、なおかつそれを何とか出来たことがいくつあるだろう? 大抵は解決をあきらめ、挫折してきたのではないか? それを他人のせいにせず全て自分の能力の無さと反省してきただろうか? おそらくそうでは無かったと思う。 少なくとも僕はうまくいかなかった事に対して、周りのせいや社会のせいにしたり、考えたりしたことが多々ある。 しかし一方でうまくいった人に対しては、それがその人の力のみでなし得たと認められない時に「自分の力で解決していない」と揶揄するのだ。 解決できない時は人のせい。 解決した時は自分だけの手柄。 この話の主人公に対して「自分の力で何とかしろ」と訴える人達はそんな考えの持ち主なのではないか。 人は人との繋がりなくしては生きていけない。 僕達の生きていく社会の中には様々な問題が山積みされている。 個人的な問題にしろ、社会的な問題にしろ、自分一人で解決出来る問題は問題とは言わない。 それは単なる作業である。 そして他人と関わることによってしか問題は解決出来ないのだとしたら「人と出会う」というのは一つの才能であると言えるのではないだろうか。 もう一つこのスレッドのまとめに対するコメントで気になったのが、この物語自体に何も感動を覚えないという声である。 もちろん人が何に対して感動するかというのは人それぞれであり、この話に感動しないと言っても何ら不思議ではない。 しかし僕はこれらの声を聞くうちに「人が幸せになるのも才能がいるのだな」と思うようになった。 これが二つ目の才能「幸せを感じる才能」である。 人が感動したり幸せを感じる、いわゆるプラスの、ポジティブな感情を抱く理由は色々ある。 今回のように面白い話を読んだ時。 面白い、感動する映画を見たとき。 音楽を聴いている時。 美味しい食べ物を食べた時。 お笑い番組を見て笑っているとき。 好きな人や家族と一緒にいるだけで幸せを感じる人もいるだろう。 これらはそれぞれ「人を幸せにする才能」を持っている。 小説にしろ、映画にしろ、音楽にしろ、全てそれを体験して幸せを感じる人が一人でもいたとしたら、それらは「人を幸せにする才能」があると言えるだろう。 一方で同じ音楽を聴いても感動する人しない人、同じ映画を見ても涙する人しない人、色々な人がいる。 もちろん「幸せにする才能」にも程度があって強い弱いがあり、人によって感じる感じないが出てくるのであろう。 しかし僕は幸せを受ける人の側にも、それを受け取る能力の差があるのだと考える。 よくある言葉で言えば「感受性」であるが、これはあらゆる感情「喜び」「悲しみ」「怒り」「笑い」に対して使われる。 それらの感情は外からの刺激に対し、自ら「喜び」「悲しみ」「怒り」そして「笑う」という能動的に行動で表す事が出来る。 しかし「幸せ」という曖昧な感覚に対して人はあまり能動的には考えない。 一般的に「幸せ」は立場によって与えるもの、または与えられるものであり、幸せを感じる当人から見れば受動的に発生する感覚であると考えられる。 しかし、実際は受け取る側の対応によって「幸せ」という感覚は生じたり生じなかったりするのだ。 同じ音楽を同じ人が聞いても何も思わない時もあれば、涙を流して感動し幸せを感じる時もある。 それこそ自らが「幸せ」を感じる体勢を整えているからこそ、「幸せ」が生じるものであると示している。 そしてさらに、この「幸せを感じる力」は個々の中で、時に強くときに弱くなるだけではない。 「幸せを感じる才能」には個人差があるのだ。 それは例えば音楽に対して幸せを感じる人がいたり、また絵画を鑑賞することに幸せを感じる人がいたりと、幸せを与える物の種類によって、感じる感じないが分かれる場合。 種類だけでなく程度、例えば簡単な例を挙げるとしたら「お金」である。 一万円を貰って幸せを感じる人もいれば、1億円貰っても満たされない人もいる。 単純にお金=幸せと考えるかどうかの議論はおいておく。 ここでは単に幸せを数値化できるものとして分かりやすくするために「お金」で表現してみた。 そもそも幸せを単純に数値化出来る物ではない事もわかる。 しかし「幸せを感じる才能」を分かりやすく説明するためにあえて幸せを数値化してみる。 ここに幸せレベル「1」から「10」までの「幸せを与えるもの」があるとする。 もっと分かりやすく考えたいなら「1」を「一万円」「10」を「10万円」と置き換えてみてもいいだろう。 そしてここに幸せレベル「1」で十分に幸せを感じる人達がいたとする。 そして幸せレベル「5」以上のものにしか幸せを感じない人達がいる。 「5」以上のものにしか幸せを感じない人達は「1」にすら幸せを感じる人達を「あんな程度で喜んじゃって」と馬鹿にするかもしれない。 今回のスレッドのまとめに書かれた話は幸せレベルで言うと「1」程度なのかもしれない。 そしてこれを読んで「感動した」とコメントしている人達に対して「こんなののどこに感動するの?」と疑問を投げかける人達は少なくとも幸せレベル「1」では幸せを感じることが出来ない人たちなのだろう。 彼らは「そういった低いレベルで喜んでいる人達はそこで満足してしまい、より大きな幸せを手にすることを諦める」と考え非難する。 しかし果たして本当にそうだと言えるのだろうか。 低いレベルで満足出来る人の中には、確かにそれ以上を望まない人も出てくるだろう。 しかしレベル「1」で幸せを感じることが出来た人が、幸せレベル「2」のものに出会えた時には明らかにそれに幸せを感じることが出来るだろう。 そして幸せレベル「3」で幸せを感じない人が「4」「5」「6」と次々と幸せレベルが高いものに出会ったとしても、幸せを感じるとは限らないのだ。 もしかしたら「10」を超えても「100」を超えても幸せを感じない人もいるかもしれない。 果たしてどちらが幸せと言えるのだろうか? 幸せを数値化したついでに、幸せは単純に累計出来ないものと知りながら、あえて累計してみる。 幸せレベル「1」を幸せ質量「一」で表せるとする。 幸せレベル「1」で幸せを感じた人は幸せ質量「一」を得るものとする。 そうすると彼らは当然レベル「2」のものに出会えば質量「二」を得ることが出来、彼らの人生の幸せの総量は「三」となる。 一方幸せレベル「5」以上でしか幸せを感じない人は、彼らと同じ体験をしたとしてもまだ幸せを感じることは出来ず、幸せの総量は「0」のままである。 それどころか彼らより幸せレベル「1」のものに沢山出会えたとしても、さらに「2」「3」「4」とどんどん幸せなことに出会えたとしても、ずっと「0」のままなのである。 そして先の人達が次にレベル「3」のものに出会い、幸せを感じ、総量が「六」になったとする。 もうこの時点で後の人がレベル「5」の幸せに出会い、ようやく幸せを感じ一気に幸せの総量が「五」になったとしても負けているのである。 幸せに勝ち負けは無いと考えるのが普通であろうが、得てして彼らのような「幸せを感じる才能」に乏しい人達ほど幸せに優劣があると考えがちなのだ。 だからこそ、レベルの低い幸せに満足する人達を見下すのである。 しかし実際に多くの幸せを感じるのは彼らがレベルが低いと見下している人達の方なのである。 さらに彼らを幸せどころか不幸にするのは、幸せレベル「5」以上にしか幸せを感じることの出来ない人達が、その人生において「5」以上のものに出会う保障は無いということである。 また分かりやすくお金で考えると、例えば年収1000万以上でしか満足出来ない人が年収1000万以上稼ぐことが出来るとは限らないのである。 逆に言えば現状の年収300万でも満足出来る人が、年収5000万以上を稼ぐ可能性は否定できないということだ。 自分の才覚を超える幸せでしか幸せを感じる事が出来ない人がいるとしたら、その人は一生幸せを感じることが出来ない。 自分の才覚の範囲内で幸せを得る事が出来る人は、自分の才能の限りにどんどん幸せを増やすことが出来る。 どちらが幸せなのかは明らかであろう。 幸せを感じるのは自分自身の才能によるものなのである。 先の「人に出会う才能」の時にも述べたが、「幸せを感じないのは人のせい」「それがつまらないから」と自分以外のもののせいにするのは簡単だ。 しかしもっと簡単なのはどんな些細なことにも幸せを感じる自分を作ることではないか。 自分自身が変わることによって、自分次第で世の中は幸せで溢れるようになる。 そんなことを感じるひと時を与えてくれた文章達でした。 |
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